2008年1月22日火曜日

英国の周産期医療

ロンドンから西に向かうとオックスフォードのその向こうはコッズウォルツと呼ばれる、美しい村々の風景がある。そのコッズウォルツの先、ウェールズとの国境手前にブリストルという地方都市がある。ブリストルには王立小児病院があり、その地域の三次医療施設として、高度医療も担っている。しかし、その病院を舞台に事件は起きた。

この病院に新しく赴任した麻酔科医が目にしたのは、他の病院に比べて高い心臓手術後の死亡率であった。この麻酔科医は、告発文をしたため院長に直訴するも無視されたが、マスコミの知るところとなり、大きな事件として報道された。くだんの麻酔科医は現在、豪州で診療している。

その後、その病院で心臓手術後死亡した子供達の家族が集まって、医師と病院を相手に医療訴訟をおこした。医師の登録監査機関であるGeneral Medical Councilは院長と一人の心臓外科医を医師免許停止、もう一人の心臓外科医を一定期間心臓手術に携われないという処分を行った。

しかしながら遺族は、さらに詳しい調査を求めた。こういった背景により、英国政府は特別調査委員会を設置し、詳細な疫学研究と詳細な面接、カルテを含む90万ページに及ぶ記録の調査、そして7回に及ぶ公聴会が開かれ、原因の究明と将来への対策が練られた。疫学研究と面接、記録の調査からは、個人ではなくシステムに問題があるという点が強調され、公聴会を通して、1)制度や病院運営に患者・一般の参画、2)危険な診療と問題から学ぶ姿勢の制度化、3)国レベルでの標準診療を示す必要性、4)診療成績を透明化・外部からの評価の必要性、など198に及ぶ推奨が示された。

当時、すでに英国で診療ガバナンスという言葉が作られ、大きく取り上げられるようになっていた。診療ガバナンスというのは、1)科学的根拠に基づいた最適な診療を提示し、2)その最適な診療を適切な形で現場に導入し、3)診療成績を継続して監査することで、医療の質と安全の向上をシステムとして促していく考え方である。

ブリストルの事件や診療ガバナンスといったことを背景に、英国の医療制度改革を旗印にして、保守党政権が長らく続いた後に生まれたのが、ブレア労働党政権である。社会主義(第一の道)でもなく、自由主義(第二の道)でもない、「第三の道」を標語として、NICEという科学的根拠に基づく最適な診療を示す組織と、診療成績を監査するHealthcare Commissionという組織を設立し、国全体での診療ガバナンスの実現とともに、各病院や学会レベルでも同様に実現することが求められている。ここに英国の個人ではなく「システム」により物事を変えていこうとする、「population-base」の考え方が見える。

英国の医療制度は国民医療サービス(NHS:National Health Service)と呼ばれる。1948年、戦後に始まったこの制度は、「ゆりかごから墓場まで」を標語に、英国に住む人にはだれでも無料で医療サービスを提供するという社会主義的な制度である。戦前までは慈善病院、王立病院、公立病院、私立病院とばらばらだった状態から、病院、勤務している職員をすべて一旦国が買い上げ、すべて国立とするところから始まった。野放しであった、医療サービスを、公共サービス、すなわちインフラストラクチャーとして整備しようとしての再出発であった。財源の多くは国民の税金から賄われている。先進七カ国内の比較で、医療費の国内総生産(GDP)に占める比率では、英国は日本と並んでもっとも低い。

英国の実際の周産期医療現場はどうなっているのだろうか。

周産期に携わるスタッフは産婦人科医、助産師、産科麻酔科医、新生児科医など産科麻酔科医以外は日本と変わらない。医師はコンサルタント、レジストラー、SHOという役職に分かれており、コンサルタントは担当部署の管理者、レジストラーは実働部隊、SHOは研修医と言ったような役割である。産科側も新生児科側もすべての医師がシフト制で勤務していることが多く、コンサルタントは3-10人ぐらいで病棟・外来の管理者の役割を担い、残りの時間は、研究、教育、運営などに割かれている。コンサルタントは夜のオンコールはあっても当直は無い。レジストラーは同様に5-9人ぐらいで、ときおりフェローと呼ばれる半分研究・半分臨床といった医師もこのレベルのシフトに入ることも多い。SHOも同様である。外国人医師が多いのも特徴で、働いている医師の約30%は外国人である。外国人医師たちはSHOやレジストラーレベルでの一定期間の研修・勤務を終えると母国に帰ることも多く、そのため、英国人のコンサルタントに、外国人のレジストラー・SHOというのが日常光景である。

シフト制をとっているため、勤務時間は日本と大きく異なる。さらに、European Working Time Directiveと呼ばれる欧州共同体の標準勤務時間に合わせるための努力が現在なされており、2009年までに週48時間という目標が設定されており、政府と学会を挙げて、病院の再編、当直体制の見直し、医師職の増員など様々な工夫をしている。

「新生児科医」という定義はあいまいなので、小児科医で比較すると、英国では小児科医の担当する範囲は18歳までであり、なおかつプライマリーケアは専門の違う一般家庭医、救急科は専門の違う救急医が担当するため、単純な比較はできないが、英国の小児(19歳未満)人口10万人あたりの小児科医数29.2人は日本の小児(15歳未満)人口10万人あたりの小児科医数79.9人に比べてかなり少ない。この小児科医の数のうち、49%は女性で、その他の専門科のなかでは最も女性の比率が高い。また小児科医全体の42%はパートタイムで勤務しており、コンサルタントと呼ばれる管理職の女性30%以上、中間レベルの小児科女性医師の50%以上がパートタイムで勤務している。

ただし、英国では小児科医は二次医療以上の専門の病気を診る役割であり、日本のように小児に関して一次医療(プライマリーケア)から三次医療までを診ることは無い。このため英国では小児科医が開業してプライマリーケアを担当するという概念は無く、これは英国では一般家庭医の役割である。そこで、日本の小児科医数から開業医数を除き、病院勤務医だけで計算すると、日本小児科学会の概算では、日本の人口10万人あたりの病院小児科医数は36.6人となる。さらに、日本の小児科標榜病院数は3528病院と報告されているが、英国では全国で204病院しかない。このため1病院あたりの小児科勤務医数では、日本の1.8人に比べ、英国では20.8人と10倍以上である。図は、病院とは微妙に違うが、病院の地域運営母体ごとの小児科医数を日英で比較している。英国で一病院あたりの小児科医数が多いのは、集中化で効率を高めているだけではなく、上記のように、二次医療の高度医療を担当する小児科医はサブ・スペシャリティの充実が前提になっており、一つの病院で小児循環器・新生児・腎臓・小児神経・感染症など基本的なスペシャリティを網羅するには一定の人数が必要、という認識があるからである。

英語圏の4カ国、米国、英国、オーストラリア、カナダの周産期医療、特に新生児医療の効率を比較する研究が行われた。(Pediatrics. 2002;109:1036-43.)この4カ国内では、上記の医師の役割分担や、背景にある人々(移民が多い)、NICUベッドの定義などが比較的似ているため、制度・システムの比較が可能となる。逆にこれらの理由で日本の医療とは単純には比較できない。

この研究では、まず、出生一万あたりのNICUベッド数では、米国が最も多く3.3で、オーストラリア、カナダがともに2.6という数字に比較して、英国では0.67と極端に低い。また出生一万あたりの新生児科医数は米国が最も多く6.1に対し、英国2.7、豪州3.7、カナダ3.3となっている。ちなみに新生児科医一人あたりが診るNICUベッド数は、カナダ0.78、オーストラリア0.70、米国0.54、英国0.25となる。

以上のような医療人材・設備資源で、どのような成績をもたらしているかというと、1000g未満の超低出生体重児の新生児死亡率で、米国を1とすると、カナダは1.12、英国は0.99、豪州は0.84となる。また1000グラム以上2500グラム未満の低出生体重児の新生児死亡率で米国を1とすると、カナダは1.26、豪州は0.97、英国は0.95と英国がもっとも低い。

単純比較で、数字には限界はあるが、少なくとも英国の新生児医療は米国の新生児医療に比べて少ない資源で、効果を上げている、すなわち効率が高いという計算になる。

NICU内での医療は必ずしも日本ほどきめ細かくは無く、レベルもそれほど高いとはいえなくても、効果を上げているのは、「全体を見る」という見方から、優先順位を起き方や全体の統制により無駄を省いているところに鍵がある。そのための臨床疫学研究も非常に盛んである。

さらに現在、英国では、最初の話にある診療ガバナンスに基づいた、医療の質・安全・標準化をさらに推し進めている。筆者は属しているNICEという組織で正常出産の最適なあり方を示すガイドラインを作成しているが、こういったガイドラインを目標とし、各学会や病院レベル、またHealthcare Commission といったような組織によりその成果を監視することにより、さらに標準化、またシステムとしての質・安全の向上に取り組んでいる。

英国は疫学・公衆衛生学の母国であり、上記のように、木もそうであるが、「森を見る」というところに長けた国である。こういった「全体を見る」あるいは「population-base」という考え方は、これから医療資源の限界を迎える各先進国にも、もともと医療資源の限界と戦っている途上国でも非常に重要考え方になる。さらに、この背景に、成熟した個人主義に基づいた民主主義という考え方があることを指摘しておきたい。個人の自由は責任を伴い、それによって全体も支える、という欧州の長い民主主義の伝統が凝縮されてきた「全体を見る」見方である。この世に生まれてきた人すべては出産を経験するが、すべての人が老人になるわけではない。また、胎内環境や、出生直後の環境が、その人のその先の人生に精神面であれ、肉体面であれ、大きく影響していることが最近わかりつつあることは周知の通りである。すなわち、周産期医療というのは、人類の将来にとってとても大切な、すべての人が通る道を担う重要な事柄を扱っている。そういう意味からも、それぞれの役割にいる専門家すべてがこのように「全体を見る」考え方を持つ必要がある。

(既出・GE Today・一部改編・禁無断転載)

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