2015年9月25日金曜日

政策の意思決定について


知れば知るほど、環境であれ、健康であれ、開発であれ、安全保障であれ、世界は問題が山積みで、自然と次の世代のことを考える。子どもや家族関連の社会保障が充実してほしいと願っている。そのために現在の私の立場として努力できることは数多くある。

ただ、その前に、日本の政府の債務超過が一向に減らない状況を見るにつけ、税金の使い道を考えることよりも先に、借金を減らすことの方が、まずは将来の世代のためになるのではないか、と思う。

なぜ、債務超過が一向に減らないのか。おそらく、エネルギーの問題、環境の問題、安全保障の問題、外交の問題など、医療や保健、社会保障に限らず、政策の意思決定という上流の問題が解決されない限り、先に進めないような気がしている。

子どもや家族関連社会保障費から、政策の意思決定への解決の糸口を考えてみたい。

家族関連の社会保障費(GNP比)に関していえば、日本は先進諸国の中では最低グループである。ただ、近年、その金額は増えてきている。下の図は1980年以降のOECD諸国の対GNP家族関連社会保障費で、OECD.statからデータを得た。国を色別グループに分けた。






北欧、西欧、南欧、東欧、豪州、東亜、米州、中東と分けてみた。トルコは便宜上中東に入れた。赤く太いところが日本である。地域ごとに特色がある。北欧はイメージ通り、最も支出額が大きい。西欧は幅があるが二つのグループがある。豪州は北欧に次いで支出額が大きい。その後東欧、南欧、米州、そして東亜となる。中東は判断がつかない。

もちろん、一時期、赤字国債や建設国債による、いわゆる箱モノを中心とした公共投資を積極的に行った日本政府は、現在債務超過が巨大となっているので、プライマリーバランス、すなわち財布全体のひっ迫具合も、こういった数字としては出てこないので、こういう環境の中で「微増」というのはかなり大きな力の可能性はあるし、こういった背景なしに国際比較は難しい。

現実に、日本は子育てに苦労する国である。社会保障費に限らず教育費も個人負担は大きい。子どもがすべて公立校で行けば平均的には一人当たり1000万円、私立校となれば2500万円かかるとされている。

制度の建前から言うと、義務教育年限は15歳までとされ、保育園であれ、小中学校であれ、母子・父子家庭であれ、生活保護であれ、「最低限」は担保されている。

制度の焦点を最低限とするのか、平均とするのかは、社会保障の哲学の問題ではある。こう考えると、自由主義的な社会保障の考え方を取る米国と上記の図で近い値を取ることは理解できる。

子どもが成熟して自立するまでかかる年数は、児童福祉法が制定された約70年前(昭和22年)とは大きく異なる。少なくとも経済的な自立は20歳前半というのが一般的である。短絡的に見ると、「今どきの子どもなかなか独立しない・・・」といった「昔はよかった」的な話であるが、実際、社会環境の変化によるものであり、彼らの責任ではない。成熟するのに得る必要があるものが増え、時間がかかっている。

また、教育制度が整備されて、じわじわと女性と男性の教育機会の差が縮まり、また女性の社会における地位も少しずつ改善して、仕事の機会も増えた。

こういった、家族をめぐる現状が大きく変化したにもかかわらず、制度は大昔のままであるがため、子育てに大きな壁・逆風を感じる構造になっている。

実際に海外で仕事をし、生活をしてきた経験から言うと、日本は、数字以上に子育てが困難な社会になっている。おそらくは、多くの国民の意識はこういった現状に近いにもかかわらず、制度は現状からは程遠いものになっている。

ただ、こういった、家族関連の社会保障を、限られた予算の中でどれくらい大切に考えるか、というのは、国としての意思決定である。国としての意思決定を、国民の総意によって行うのが民主主義であると理解している。

家族関連社会保障は、日本は2008年ごろまではさほど重視していなかったが、近年少しだけ増やしている、というのは日本の国民の総意だろうか。実は2011年前後の微増は当時の民主党政権の子ども手当などに拠るもので、現在は減少している。昨今の安全保障関連法案に関連して、民主主義のことがずいぶんと話し合われていて、いろいろ考えさせられた。すなわち、

1)現代の日本において、国としての意思決定は、国民の総意を反映しているか
2)その現代の日本における国としての意思決定は、適切なのか

という二点である。

私の印象は、「全く反映しないことはないが、ずいぶんともどかしいものを感じている」というところではないかと思っている。ちょうど、家族関連社会保障費が大変低いものの微増している、という立ち位置と似ている。「なんとなくもどかしいものを感じている」ということは、国民の総意が反映しにくい、ということになるが、それはどうしてだろうか。また、どうしたらよくなるのだろうか。

巷では、さまざまな専門家が意見を述べているように思う。それらを踏まえて、意思決定プロセスで考えてみたいと思う。

1.官僚(行政府)の問題:

霞が関であれ、地方自治体であれ、行政府、すなわち官僚・公務員は、制度の運用を行う存在である。このため、制度、すなわち政策の意思決定には建前上は関与しない。このため、官僚・公務員の雇用は選挙制度ではなく、実務能力によってきめられるという建付けになっている。

ただ、実際のところは、制度の運用以上の仕事をしている。現代の政策や制度は複雑化し、高度に専門化していることもあり、また事項で述べる、立法府における人材不足もあり、行政府の構成員である官僚が立法に大きく関与しているのが現実である。

また、日本の制度や法律は、いわゆる「グレーゾーン」が大きく取られているのが特徴であり、制度上精緻に詰めるのではなく、運用の裁量が大きい。

ちょうど、一般道の自動車の上限速度がかなり低く設定されているため、実際にはほとんどの人が「違反している」という状態を生み、このため、悪く言えば、警察としては「任意に捕まえたい人を捕まえることが可能」というのが現実である。

このように、実際の業務を逸脱して意思決定に関与することができることもあり、組織として、自分たちの組織に利益が誘導できるように工夫したり、ということも不可能ではない。全体としてみると、官僚や公務員を問題とする意見が強く、予算を削減されたりなどして、個々の官僚・公務員に大きな負担がいっている割には、実際には粘り強くまじめに日本の将来を考えて仕事をしている人の方がはるかに多いとは思う。

一方で、行政府においては、機密情報や重要情報が集められるが、こういった情報のうち、どのような情報を出すか、出さないか、というようなやり方で、意思決定に影響を及ぼすこともできる。実際に、町で商品が売られているときに、本来的にはほしいと思っていなくても、買ってしまうような、広告など情報の出し方の工夫の方法は広範囲にわたって存在しており、いかに制度で縛っても、人の意思決定に影響する方法はたくさんあるのは事実である。

上記のような状態があるからといって、「官僚が悪い」とするのは、あまりに短絡的である。逆に制度的に官僚に意思決定の裁量があるのは、制度の問題であり、個別の問題ではないからである。こういった状態を生むようになった背景として、A)政策の高度専門化と、B)立法府の人材不足、そしてC)情報の不均衡というような要素があるように思う。このA)B)C)は表裏一体である。官僚・公務員は意思決定に加わらない、という雰囲気を作り出していくには時間がかかる。

難しいのは、裁量権が減ることで、業務が「ツマラナイ」ものになりかねないことである。優秀な人材であるほど、裁量権があって活かされる部分がある。

民主主義や意思決定は、実際の制度設計上はゼロかイチかというところではなく、「程度」の問題なので、「裁量権」がなくなることはないが、公務員は意思決定に加わらないという建付けに現実を近づかなければ、制度上の矛盾が生じてしまうので、やはり、官僚・公務員の裁量権を減らすような方向で改善する必要はあると思う。

グレーゾーンはできるだけ減らすという努力は払うべきで、立法府の責任は大きい。

2.政治家(立法府)の問題:

官僚と同様、なにか政策上の問題があると、政治家の問題にする傾向があるように思う。

子どもに関連した政策に関していえば、国会議員などに陳情に行っても、お話はよく聞いてもらえるが、本音として、「子どもの政策は票にならない」ということがよく言われる。

英国で勤務していた時代、英国の国会議員に触れることがあったが、大きな違いは、組織であった。二大政党制が大きな伝統として根付いているため、選挙は人を選ぶのではなく、政党を選ぶ選挙となる。このため、その地にゆかりのない人が候補者として示されることが多い。

こういった政党組織が存在するため、国会議員の専門性が高まるということがあった。各政党は、社会保障や安全保障という枠組みではなく、「女性の健康問題の専門家」といったようなレベルでかなり細かく専門性が掘り下げられるため、立法能力も高く、それぞれの事柄に関して詳しい。逆に表にならないような案件に関しても、比較的安心して専門が掘り下げられることになる。ただ、逆を言えば、政治家が官僚的ではあるが。

個人というよりは組織としての政党政治が根付いていることにより、逆に言えば、政党の長がしょっちゅう変わるということもなくなる。

ただ、二大政党制であれば、政策が対照的で二者択一となるが、実際の政策は、高度な専門化と同時に、二者択一が問題ではなく、セーフティネットの作りこみをどのようにするか、など、するかしないか、ではなく、どのようにするか、ということが大きな問題なので、総意形成という意味では比例代表制度の方が適切であるという考え方もある。

また、政治家になっても、政党のような大きな組織の中で仕事をしていくには、組織の一員となることが要求されるため、すべての組織がそうであるように、「組織を守るため」あるいは、「伝統を守るため」の行動原理が身についていき、指導者となる時点ですでに、その行動原理に完全に染まっている必要がある。政治家であれ、サラリーマンであれ、日本人社会というコミュニティであるのは変わらない。

この行動原理には、後で述べる対米従属の問題や、利益団体との関係性も大きく関与してくる。

意思決定を行う人が、政策の細かいところまで立案するべきか、というと、実際には異なるタイプの業務となるため、むずかしい、前項では、官僚が携わることの問題を述べたが、一方で政治家が携わることも難しいということになる。

米国のようにシンクタンクが豊富にあればよいかもしれないが、人材が非常に限られる日本では望むことはできない。

現実は、官僚の力を借りつつ、在野の専門家の力も借りつつ、意思決定とともにこういったグループをまとめつつ実際の政策を策定する能力が、政治家には求められている。一言で「リーダーシップ」というような形で呼ばれたりするが、単に人物として魅力的であったり、狭い専門性の組織で指導者としてうまくいった経験があるということとは異なる能力のようにも思える。

そもそも、日本では、人口の高齢化とともに、高齢者の高い投票率、そして、あらゆる組織で年功序列的な性格があり、それが、利益団体にも官僚組織にも反映されることから、どうしても、「高齢者」が優遇される政策が策定される傾向がある。日本のすべての組織で指導層の構成が高齢者に偏重しない(若者ばかりでも問題だと思う)形に変わらないと変わらないのだろうか。

こういったような背景から、問題点として、政治家のA)一般的に意思決定者としての資質が低いこと、そして、B) 現実の政治家集団の価値観は、国民全体の価値観と異なることが問題である。A)B)は「ふさわしい人を選ぶことができているか」という点では共通の課題である。

政治家は、国民が直接選ぶことを考慮すると、とりもなおさず、選挙制度の問題であろうか。とはいえ、官僚のところで示したように、「情報の出し方」次第で、構造的に正当な意思決定ができないことがあり、これは、「権力」の座にある政治家と、ヒラの政治家との関係においても、有権者と政治家との関係においても同様である。

選挙の争点を経済問題として、それで当選した政治家集団で、安全保障問題での意思決定をするというのは、制度的に問題はないが、有権者から見ると、意思決定にねじれがあるということになる。

3.選挙制度の問題:

完全な選挙制度はない。

案件ごとに、選挙をするわけにはいかないため、前項で述べたように、ある課題が選挙の争点であったにもかかわらず、別の案件で意思決定が行われるというようなことがある。

また、政党交付金などの制度設計で、新しい政党が参入するハードルは高く、実際の選挙は、「組織票」で決まることが多い。

実際に、選挙においては、名前を連呼するだけのアピールであったりすることを考えても、メッセージがかなり単純化されるため、政治家の価値観と有権者の価値観があっているかどうかという判断をするには情報が少なすぎる。

政治家としての実務能力ではなく、表面的なアピールにより影響される。スーパーマーケットでお菓子を買うのと変わらない。パッケージに惑わされてしまう。

実際に政治家を選ぼうにも、「どの人も今一つ」というのが実際のところで、もしかすると、社会そのものの人材の流動性が高まらなければ、「政治家」候補のプールに質の高い人材が流れてこない可能性もある。

教育委員会や医療委員会というように、案件ごとに住民の直接選挙によって意思決定を行う専門家を選ぶ、という方法を取る国もある。教育委員会は日本でもかつては選挙で選ばれていたと聞いた。

上述したように、「組織票」によって選挙が決まるのであれば、そもそもの母体となっている組織の意思決定のあり方が問われることになる。二重三重の間接選挙ということになり、意思決定もそれらの組織を守るために機能していくため、思い切った意思決定はできない。

政治家であれ、有権者であれ、それぞれの自分の狭い周囲の関係性から、意思決定が生まれると、自然と、そういった意図が反映されるような制度設計が生まれ、これがいわゆる「ムラ」を構成することになる。

4.対米従属の問題と陰謀論:

先日外国人記者クラブで、「日本会議」の話が出た。与党野党を含めて、国会議員の中で日本会議のメンバーが多く含まれ、閣僚はその割合が非常に高いという話である。

また、経済的にも安全保障においても、日本における意思決定は、実際は米国の国務省をはじめとして、米国からの意思決定に従属する構造になっているという観察が、最近よく話し合われるようになった。米国の軍産共同体による影響はまことしやかに言われている。

米国国内、あるいは米国政府内でも、さまざまな政治闘争があり、日本のような弱小国では、こういった政治闘争の影響も有形無形に存在していると考えられる。

さらには、ロックフェラー家やロスチャイルド家、フリーメイソンといった、本当かどうか分からないところで、さまざまな意思決定がなされているという観察も、最近多く示されている。

こういった非常に強大な力を持った個人や組織が影響を及ぼそうとして、ある程度その力と工夫によって影響を及ぼすことができ、実際こういった状況を生んでいるのは事実であろうと考えられる。

上記に述べたように、情報の不均衡、示し方、さらに個々の権力構造(雇用関係など)、カリスマ次第で、他人の意思決定に影響を及ぼすことは可能であり、官僚であれ、政治家であれ、米国政府であれ、秘密組織であれ、個人であれ、組織であれ、程度の差こそあれ、影響を及ぼしており、逆に私たち個人、個人も意識せずに影響を受けているだろうと考えられる。

5.個人の問題:

このように考えていくと、ありきたりだが、個人の問題として考えざるを得なくなる。私たちの日常的な意思決定は、「本当に私たちがしたいこと」という意思決定によるのかどうか。他人に影響を受けていないか。自分の所属する組織の論理に影響を受けていないだろうか。

個人として、意思決定が独立して、前向きに選択して行われていること、そして、そのために必要充分な情報を持っていることが、おそらく意思決定が民主的になっていくために必要なことである。

個人の意思決定と、別の個人の意思決定がぶつかるときがある。あるいは組織の意思決定と個人の意思決定がぶつかるときがある。ぶつかることから逃げることも、影響を受けていることになるし、他人の意思決定を曲げようとすることで、影響を及ぼすことになることになり、そのどちらも本質的に民主主義の敵となる。

誰にも影響を及ぼさないと考えられることで独立した意思決定を確かめるのではなく、意思決定がぶつかるときに、どのように対処していくか、ということで、民主主義が問われると思う。

こういった共生的に、個人として独立していくことが、大きな柱のように思う。

さらに、バランスの取れた信頼性の高い情報をえることが、もう一つの大きな柱のように思う。

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